<柚木元の松茸料理> 前編
「これは私が隠していた、裸の香りです」。
そう、土の精が耳元で囁いた。
目の前には数時間前に採ったという大量の松茸が群れている。
「採れたての松茸は、土の香りがするのです。これがこの茸のの旬で、朝収穫したものを夜食べるのでもダメですし、クール便で送ったらなおさら失われます」。
松茸の香りもする。
だがそれ以上にたなびくのは、腐葉土や濡れた土が放つ、人跡未踏の匂いである。
それらが微粒子となって、鼻の襞にこびりつく。
「様々に育った松茸があります。乳歯もあれば大きく傘が開いたものもある。本日はこれを一人600gほど様々な料理で食べていただきます」。
今まで松茸をさんざん食べてきた。
しかし今夜ほど驚いたことはない。
食感であり、切る音であり、香りであり、旨味である。
すべてが今までとは違う。
まったく知らない世界だった。
萩原さんは、松茸という食材に甘えていない。
様々な成長具合の松茸に、あるいは傘や軸に、適切な仕事を施て生かし切る。
焼きには、土瓶蒸しには、ご飯には、フライには何が適しているか。
おそらく何度もの施行を経て出来上がったものなのだろう。
どの料理にも必然があり、愛があった。
それではすべての松茸料理を紹介しよう。
★松茸味噌漬け。
前菜八寸の一品。
松茸を大きく成長させるため、小さいものは間引き、流通しない。
その2回目に間引いた乳歯を、味噌漬けにしたのだという。
噛めば、クリッと歯が入り香りが広がるが、微かに味噌の旨味が、幼い松茸を支えている。
3~4時間 味噌が入るか入らないかの塩梅を見極めた、精緻な皿である。
★土瓶蒸し
鱧の骨だけでとった出汁に、二種類の松茸だけをどっさりと入れてある。
ジャキッ。ジャキッ。
軸を一口噛んで、目を丸くした。
汁に入れられ加熱されてもなお、みずみずしいのである。
自らのエキスがまだ体内にあって、噛むたびに汁がほとばしる。
「生まれて初めて、松茸の食感を知ったのかも知れない」。
そう思った瞬間だった。
その食感は、清らかだけど、妖しい。
それは生の気配があるからである。
★松茸焼
「シーズンの序盤は虫が半分入っていて、気温が下がって安定すると綺麗で真っ直ぐな松茸ができてきます。よかった。今日最盛期です」。
篠原さんはそう言って、水で洗った松茸を取り出した。
水で洗う?
「濡れた布巾で汚れを取るといいますが、採れたては水で洗っても大丈夫なんです」。
洗った松茸を触らせてもらった。
ぬるっとする。
ただし日が経った茸のぬるりではない。
触られたことにより、松茸内部から水分がにじみ出ているような、生体反応による「ぬるっ」なのである。
試しに匂いを嗅ぐと、香りがしない。
しかし包丁を入れた瞬間、香りが辺りに立ち込める。
しかも切る時に、「キコキコ」と、音がするではないか。
普通に包丁で切っている音ではない。
松茸の水分が包丁にしがみつく音なのだろう。
これまた生体反応であろう。
二つに切った松茸を七輪にかける、
和紙をかけ水を切り吹く。
「こうしなくとも、水分は十分にありますが、一口目の食感が大切なので、この方法でやっています」。
皿に三本分の松茸の半分が置かれた。
湯気が上がり、表面がしっとりと濡れている。
噛んでまた目を見開いた。
「ボキボキッ」。
かつて松茸焼きを食べて、こんな音が響いたことがない。
隣の人が食べている音が聞こえるほど、「ボキボキッ」とした音が聞こえるのである。
これが松茸が生きているということなのか。
大鹿村の山塩をつけて食べれば、途端に甘みが膨らんだ。
それぞれを手で縦に割いて、手づかみで食べるの正しい。
食べる、食べる。
三本食べて驚かされたのは、旨味、香り、しなやかさ、品がみんな違うのである。
これが野生であり、自然であるということなのだ。
食べ終わった皿に、滴り落ちた松茸の汁がたぷたぷと残っている。
そこに少しだけ酒を入れた。
飲む。
その瞬間僕は、赤松の林の只中に埋まっていた。
続く